渡辺幸之助(昭和58年文学部文学科国文学専攻卒業)

渡辺幸之助(昭和58年文学部文学科国文学専攻卒業) 【略歴】わたなべ・こうのすけ(61歳)
山梨県内で中学校教員を37年間務め、現在武蔵野大学文学部特任教授。専門は国語科、学級づくり。山梨県内を中心に研修会講師、講演活動を展開中。中央大学時代は童話サークル「赤い鳥」、宮沢賢治自主ゼミに所属。

寄稿

コロナ禍に同期の仲間は何を考え、どう過ごしたか

国内のPCR検査陽性者数の推移  コロナ禍とは何か?それは「世界大戦並みの災禍が、日常の風景の中で進行する未曾有の体験」そう言ってきた。

 コロナ感染者の棒グラフが描く「波」。そのどこに自分の「何」がリンクしていたのか。当てはめてみるのも面白い。その一人一人の素朴な行為が、この特殊な事態の意味をモザイクのように描き出す。それが、この原稿依頼者の意図であろう。そう勝手に解釈して書いてみたい。

1. さざ波の中での定年退職

 「第1波」と呼ぶにはあまりにささやかな波。グラフの中の、子どもでも踏み潰せそうなこの小さな山が、4月中旬をピークとして「聳えて」いる。その直前にある「さざ波」の中で、37年間の教員生活が終わった。

 「全国一斉の休校要請」あの唐突な独断に怒ったのは、定年退職への感傷からではもちろんない。あまりの想像力の欠如に対してだ。専門家会議も存在し、閣僚にはそれぞれの担当がいて、それぞれの分野に助言者・ブレーンがいるはず。少なくともリーダーが決断を下すには、相当幅広く意見を聞き、自分自身の腹を決める拠り所の「核」をもたなければならない。それらをすっ飛ばしてのまさに独断。日がたつに連れて詳らかになる顛末からは、それまで感じ続けたこの国のリーダーの「欠落」が何重にもダメ押しとして印象づけられた。

 「首相があそこまで言うのを県教委は無視できないでしょう。」分別くさい言葉で、休校開始のタイミングを受け入れようとする校長会での意見。「誰の立場でものを言っているんですか。私達は校長の立場でまず考え、学校を代表して主張する。卒業の季節を迎える子どもや親、教員の思いを背負っているのがこの立場ではありませんか。」せめぎ合いを経て何とか数日休校を遅らせ、その間にできることをすることになった。報道ではさっさと休校措置を取る自治体・学校の多さ。誰に目が向いているか。公教育の危うさを感じた。

 時間は戻らない。「今思えば……」は泣き言でしかない。それでも、あの時点で職員室で話した内容を記す。

 「100歩譲って、感染の広がりを懸念するにしてもこう言ってほしかった。『学校でも極めて大事な卒業の時期を迎えていることは理解できます。そこで、細心の注意を払ってあと1週間の猶予期間の中で必要なことを済ませ、休校措置を取って下さい。ここで感染爆発を抑えることで、4月からの学校再開に希望が見出せるでしょう。』というような。ただし、今休校したって4月にコロナが収まる保障は全くないけどね。いや、絶対無理だって!」

 今となっては……。

2. 第1波のピークの前に新たな日々が始まった

 第1波の小さな山の途中で、大学と中学校、2つの新しい職場での仕事が始まった。

 10年に渡った公立中学校管理職の仕事から大学教員として授業をする日々へ。山梨から都内に職場が移っただけでなく、山梨の中でも「僻地」と呼ばれる全校生徒15名の中学校。そこの教員も兼ねる。大学も中学校も通勤時間は片道100分ほど。その上勤務する大学は「休校しない宣言」を早々出していた。悩む猶予すら与えられない。

 大学での新しい同僚の誰一人としてオンライン授業の経験はない。まず、学生に課題を出し、メールで指導をしつつオンライン授業開始の準備をする。コロナ第1波の小さな山を下りきった頃、初めてのオンライン授業を開始した。それから間もなく大学2年、3年、4年の授業と、中学3年生の授業を並行させる日々が始まった。

 数回の授業経験から、このオンライン授業の可能性に気づいた。国語科教員を目指す学生達の前向きな人間性に拠るところは多い。それ以上に、PCを介しても熱意は間違いなく伝わることが分かった。それはまず教える側の試行錯誤から伝わる。ZOOMを使った授業でのパワーポイントの効果的な使用にはすぐ慣れる。次は、ZOOM内でのグループセッションの容易さを知る。ペアワークや、3人1組、4人1組でのグループワークは学生に好評。教育実習を控える4年生の模擬授業すら4人1組でなんとか2回実現できた。教員1人、生徒3人。これは期せずして私自身が小さな中学校でしている授業の状態と同じであった。さらに言えば、中学校で進行している国語の授業と、大学での「国語科教員養成のため」の授業が内容的にシンクロしていった。この日々はスリリングであり、刺激的であり、示唆に富むものであった。

 最も大きな収穫が、大学生とのメールによるフィードバックの交流。授業感想がGメールで送られてくる。その分量は400字程度からスタートし、どんどん増え2000字を超えるものも見られるようになった。その授業感想から優れたものを抜粋し、次の授業までに全員に送る。その感想集を通して、学生達が相互に学び合うことができるようになった。学生同士、授業感想に相手の個人名を入れながら評価し合うことが広がっていった。これはまさに「学びの共同体」と言える。

 この習慣は1年間、その質を深めながら続いてきた。

3. 第2波前の「小さな論争」

 遍路道は空海が修行で歩いただけに、足元が悪く急峻な坂道が多い。肉体的にはかなり辛い。海辺、深い山中、里山、街中など様々。いろいろ既に全国の多くの学校が3ヵ月近い休校を強いられているさなか、全国的に「小さな論争」が湧き起こった。「9月新年度開始論争」である。火を付けたのは高校3年生の訴えだった。高校生活最後の1年がコロナ禍での休校措置によって蝕まれた。これを回復するには9月から新年度を開始する以外にない。

 この素朴な訴えが、複数の政治家のやや意図不明な発言によって追い風を受けることになる。瞬間風速とすればかなりの勢力があるかに見えた。場合によって国を動かすかと錯覚するほどの。がしかし、1ヵ月程度であえなく消滅した。

 さかのぼること1ヵ月。我が家の食卓で「9月新年度開始」の必要性を私自身が妻(中学校教員)に論じていた。その時点で既に失われた1ヵ月の学校生活を取り戻す手段として。やがて意図不明な政治家の追い風が報じられると、「千載一遇のチャンス」を感じ、何としても生かしたいと自分でも以外なほど興奮した。

 5月末、あの独(毒)断から既に3ヵ月の学校生活が失われようとしていた。これは狭小な「学力低下」などという問題ではない。人生の重要な経験が損なわれたと言ってよい。私の前年度勤務校では、広島への修学旅行が計画変更となった。学園祭や宿泊行事が縮小を余儀なくされ、多くの大会が中止になり、そして何よりも日々のみずみずしい学校生活が著しい制限を受け続けた。

 これを回復し、さらに長年の「悲願」を達成するには「9月新年度開始」は起死回生の策と思えたのだ。この「悲願」とは、東大が試みた「9月入学」と同一ではない。公立小中学校教員にしか分からないささやかな願いだ。日本の公立小中学校の1年は3月25日前後に終わる。そして新年度開始が4月1日。私が採用された時代に、山梨県の学校現場ではこの「4月1日」に執着していた。そのため、転任する教員はほんの1週間弱で「前任校の締めくくり」を全て完了させ、「新任校への準備」も済ませなければならない。場合によっては、転居し、住民票を移し、生活の全てを変えて新しく子どもたちの前に立つ。その期間が1週間である。

 これがもし「9月新年度開始」に変われば、そこに1ヵ月以上の余裕が生じる。教員生活のスタートが間違いなく変わる。

 「ダメ元」の思いでその時点でできることから始めた。ネットへの意見投稿、知り合いの関係者への提言―教育委員会、町の議員、大学教授等。

 しかし、ある程度の論争に発展しながら、その途上であっけなくこの道は断たれてしまった。意図不明な政治家はともかく、立命館アジア太平洋大学の出口治明学長や開成中学・高校前校長の柳沢幸雄氏などの、幅広い見地からの賛成意見には心強い思いも抱いた。大きな変化を自らつくれない国民性を引きずって、重い扉を突破していくにはこのコロナ禍以外にチャンスはない……。しかしやはり無理だった。

 この「小さな論争」が収まる頃、既にコロナ第2波への動きは始まっていた。

4. 第2波の中で見た「幻影」

 2人の氏名を記録しておこう。「現役医師」大和田潔氏。京都大学特定教授上久保靖彦氏。Netで知ったこの2人の方のコロナに対する言説には説得力を感じた。第2波前後で「コロナウィルスを過剰に恐れることはない」というメッセージを出している専門家は少なかったからだ。大和田医師は「日本のコロナウイルスは終わった、さあ旅に出よう」と6月に書き、それは今や悪名高き(?)「Go toキャンペーン」のキャッチフレーズかと見まがうばかり。上久保教授は「11月以降に日本国内のコロナは終息に向かう」とさえ書いていた。時期もある程度明確にしている書きぶりから「退路を断つ」とまでは言えないが潔さも感じた。

 しかし、皮肉なことに上久保教授が明言したその時期からコロナの棒グラフはかつてない高さに駆け上がっていく。今となっては「コロナ終息の幻影」としか言いようがない。

5. 第3波ピークの兆しの前で~NetとTVのメディア特性

 大和田医師と上久保教授、私自身はこの2人の方の記事を一定の信頼感を持って読んだ。それは決してTVが取り上げない内容であったからだ。

 メディアリテラシーは中学校国語科でも取り上げる。大学生にはそれなりのレベルで身につけてほしい力であり、現代社会を生きる上で必須の能力と言える。私自身、これまでメディア特性を次のように考えていた。

  • TVは既に歴史あるマスメディアとして、一定の公平性があり信頼が置ける。各局のスポンサーである企業や資本家、番組製作者の政治思想や価値観による偏りはあっても、公共放送としてのNHKや複数局のクロスチェックで偏りは是正できる範囲だと言える。
  • Netはユーザー好みに予めカスタマイズされて情報が送られる。一つ検索するとその関連情報が一気に増えることから容易に気づく。しかし、その便利さと心地よい好みの情報に慣れると、見方・考え方の上でバランスを欠くことは想像に難くない。要注意である!

 「テレビっ子」であった私自身の「推し」はNHKの報道番組、TBS(「サンデーモーニング」等)。NetはYAHOOニュース。新聞は朝日新聞。教職員組合員でもあったので間違いなく「左より」である。

 しかし、このメディア特性への感じ方はコロナ禍で変化しつつある。TVはスポンサーと視聴率、一定の「公共性」への配慮から、コロナ禍の不安を強調はするが逆の情報は極めて少ない。それに対してNetではその足かせがはるかに弱い。そのため意外なほど多種多様な情報と出会える。

 食傷気味になっている「逼迫」という用語。これを聞くたびに「安易さ」を感じ不快になる。「医療従事者への感謝」も複雑な気持ちを拭えない。これらは主にTV用語として垂れ流される印象がある。

 「私達は仕事として当たり前にしているだけです。『感謝』を連呼されると違和感を覚えます。それより制度を見直すなど実質的なことを優先してください。」こんな医療従事者の本音をNet記事で読みホッとしたりする。

 数年前からノートPCに設定した「ネット記事から」というディレクトリ。気になる記事は「一太郎文書」として保存している。その中の「コロナ関連」というフォルダは膨らむ一方である。そこに大和田医師、上久保教授の記事も収めてある。現時点では「幻影を見せられた」としか言いようのない2人の専門家の発言。しかし、第3波のこれほどの高さを誰が予想しただろうか。そういう意味では2人を非難できる人はいない。

 一つ付け加えれば「ウィルス干渉」という現象を取り上げ、「コロナとインフルエンザは同時には流行しない」と明言した専門家の1人が上久保教授である。これすら多くのTV番組では「冬はインフルがダブルできたら大変ですよ」としか言っていなかった。こちらは今記録的なインフルの減少を時折報道で耳にするくらいであるが。

 2人の勇気ある専門家が、その後どのような訂正や新たなステージを開く見方を示していくか、注目したい。第3波がピークを過ぎた兆候とも見える数値を見ながら、「期待」を手放せないでいる。

6. コロナ禍とは何か?そして私達の進む道

 それは「世界大戦並みの災禍が、日常の風景の中で進行する未曾有の体験」そう言ってきた。

 「世界大戦並みの災禍」は昨年の3月には感じていて、職場でもこんな言い方をしていた。「コロナって東日本大震災クラスなのかそれとも太平洋戦争クラスなのか、どっちかねぇ。」その時点ですら「東日本大震災を越えていくだろう」と多くの職員が言っていた。

 にもかかわらず、職場にも町にも家庭にも、その程度に見合った緊迫感がない。それは、「日常の風景」が続いていたからだ。まさに「日常の風景の中で進行する未曾有の災禍」と言わざるを得ない。

 では、私達の進む道は?

 私の所属するある協議会で、「コロナ禍をどう教訓として残すか」という議論を始めたのが9月。今思えば第2波の終わりが見え、終息の期待も今ほど心許ない感じではなかった。その協議会では自治体からの諮問に対して答申を出す任務を負っている。直接コロナと関係している分野ではないが「コロナは避けて通れない」という意見は会員の中で一致した。この日々を記録しよう、その中から明文化しよう、そういう使命感がその場を活気づかせた。自分たちの活動が後世にきっと役立つ、そういう思いは人を奮い立たせる。

 たかが10人程度の小さな協議会である。そんな大げさな使命はそもそも与えられてはいない。しかし、いいのである。使命は与えられるものであるが、使命感は自ら得るもの、感じ取るものである。

 この白門58会会報の原稿も、与えられた使命はささやかであろう。しかし使命感は勝手に感じた人間のものとなる。

 私は感じている!これを契機とする使命感を!

  • コロナ禍は日本社会を見直す機会である。コロナ禍が終わったとき、何事もなかったかのようにコロナ前に戻ろうとするのはやめる。(震災後の原発がそうだったように。)
  • コロナ禍で炙り出された数々の社会的弱点(政治家の言葉の貧しさも)は、私達がつくり出してきたものである。オードリー・タンやアーダーン首相をうらやましがるだけではいけない。
  • 自分を過小評価してはいけない。そのことを周囲に伝えていく。「できることから始めよう!そして私達にはできることが必ずある」と。

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