中島 康予(昭和58年法学部法律学科卒)

【略歴】なかじま・やすよ 東京都出身。1959年生まれ。1983年中央大学法学部法律学科卒業。1986年中央大学大学院法学研究科博士前期課程政治学専攻修了。1989年中央大学大学院法学研究科博士後期課程政治学専攻退学(単位取得)。中央大学法学部助手・助教授を経て、2000年より教授。中央大学副学長(2017年11月~18年5月)、中央大学法学部長(13年11月~17年10月)などを歴任。現在の研究課題は、フランス政治を対象に、制度や政策の変化・変更を言説分析を通して明らかにするとともに、そのための比較政治の方法を探ることにある。

 主要著書・論文に「福祉国家再編をめぐる言説政治分析のための予備的考察」(『法学新報」115巻9・10号、2009年)、『日本の政治学』(大塚桂編著、 法律文化社、2006年)、「フランスにおける福祉国家再編の『新しい政治』」(古城利明編著『世界システムとヨーロッパ』中央大学出版部、2005年)などがある。

同期・同窓インタビュー

トンネルを走って帰った学生時代

――法学部法律学科に進学したのに、法曹界ではなく政治学に関心を持った理由は?

中島 最初から政治学に興味をもったわけじゃないんです。元々父が中大の法学部出身で、私が弁護士になりたいというのは知っていました。ただ、最初から司法試験の勉強団体に入ってガツガツやるのはよくない、より広くいろんな科目をとって勉強した方がいいとアドバイスをしてくれたんですね。それで、学部1年のときに、「法学」ではなく「社会科学概論」を履修したんです。その科目を担当していらしたのが、後に大学院で最初の指導教授として受け入れてくださった小林丈児先生だったんです。そのときの参考書のなかで紹介されていた、フランスのアルチュセールの国家論を日本語で読んで、政治学も面白いなあと。

――サークルには入らなかったのですか。

ヒルトップ隧道

中島 陶芸研究会に入りました。まず最初に〝きくねり〟の練習をするんです。土から空気を出す作業です。わりとうまくできたし、ロクロで形をつくるのも直ぐにできてうれしかったんです。

 ところが、サークルをやっていると家に帰れない。JR八高線の箱根ヶ崎駅からさらにバスに乗り継いで、というところにある自宅から片道2時間くらいかけて通っていたんですけれど、終バスが夜の9時台の前半。5限にフランス語の必修があって、終わったらトンネルを走って降りていかないと終バスに間に合わない。箱根の山下りのプロになれそうだったんですが、ゆっくりサークル活動ができなくて。それで、サークルは1カ月でやめちゃいました。きくねりやってロクロを回して楽しくて続けたかったんですが。

ベルばら世代、憧れのフランスへ

――フランスに留学されていたこともありますね。

中島 ありがたいことに、大学院を出て中央大学に助手として就職しました。助手試験は受かるとは思っていなかったので、大学院に籍をおいたまま留学したらよいと指導教授の古城利明先生からも言われて、そのつもりでいました。それが予想外の採用になって、助手論文を2年間で仕上げる必要があり、それを優先させなければなりませんでした。タイミングが遅くなりましたけれど、中央大学には在外研究という制度があって、それで行きました。フランスにいるあいだに父が亡くなって、そして母が入院したりと、いろいろありました。パリにあるフランス国立政治財団国際学術研究所に受け入れ機関になってもらい、比較的やりたいようにやらせてもらいました。資料集めたり、インタビューしたり、と。インターネットが発達する以前ですから、資料に直接アクセスできる機会というのは、やっぱり貴重な機会でした。

 日常生活では、メトロより景色が見られるので、割とバスに乗るのが楽しかったですね。1995年の冬には1カ月を超える公共交通機関のストライキがあって、どこに行くにも歩く、という経験もしました。当時のフランス人はそうしたストライキにも理解を示していて、結構楽しんでいたように思います。最近人気のパクチーの味を知ったのもフランスですね。祖国を逃れたベトナム人たちが店を開いていて、フォーを堪能したのもパリでした。

――やっぱりフランスが好き?

中島 ある種世代ですけれど、「ベルサイユのばら」世代。フランス革命に関する本を読んだりしてフランスは身近な存在だったのと、浪人しているときに文化人類学に若干興味を持って、文化人類学をやるとしたら、フランス語を読めたらいいのかなあと第二外国語にフランス語を選択しました。

 在外研究の後も何度かフランスに行きましたが、想定していたより行けなくなってしまいました。もっと頻繁に行くつもりでフランスの銀行口座も作っていたんですけれど、それを使うチャンスもないまま、国庫に没収されそうになって慌てて解約しました。

法学部単峰型ではなくて多峰型へ

――中島さんは法学部長をされていましたが、中大は法学部が看板学部。でも、今だにそれにこだわり過ぎているOBがすごく多い。「中央法科は一流だ」って。でも、いつまでもそれでいいのかと思いますが。大学内の教職員の立場ではどうお考えですか。

中島 駿河台時代の卒業生の方は、どうしても司法試験と箱根駅伝を気にされます。評議員会では、司法試験・箱根駅伝・硬式野球の3点セットが定番のテーマで、どれもダメになっている、どうするつもりなんだってお叱りをうけます。総合大学ですから法学部やロースクール以外の学部や大学院の長が質問対応で控えているのですが出番がほとんどない。

 リクルートのブランド力調査では、中大のイメージは「資格に強い」。その看板を下ろすことはないと思います。でも、それだけじゃ大学の魅力にはなりませんよね。私は中大のあるべき姿は多峰型、富士山のような単峰型ではなくて、多峰型でつながっているイメージが良いと思います。よく比較される明治大学は、何学部というのはなくて、明治大全体でさまざまな取り組みを展開しています。中大ももっとそのような大学をめざす必要があると思いますね。

 国際経営学部と国際情報学部という新しい学部がつくられますが、あれは学部じゃなく学科でいいんじゃないかという声もあるようですが、受験産業の人、コンサルからは「学科だと見えない」と言われます。学部として見えないといけないと。評価はいろいろあると思うんですが、大学が何か改革に取り組んいるというのがないと受験生の募集で厳しい。そういうことからの新学部設立だと言えます。いずれにせよ、1993年の総合政策学部新設以来ですから、新学部は26年ぶりです。

移転後、何をして何をしてこなかったのか

――僕たちの世代は移転直後ですから、多摩がダメだから都心へという発想には抵抗があります。多摩移転についても大 学としてはきちんと総括していないようだから、都心移転もまた同じではないかと思います。

中島 「中大は多摩キャンパス」というイメージはすごく強い。多摩近辺など郊外にキャンパスを持っている大学でも、本部は都心にある例が多い中で、中大は本部も多摩キャンパスに移しましたからね。理系を志望する高校生・受験生を対象にしたアンケートでも、中大は「通いにくいところにある」という答えが返ってくる。それほど多摩の大学というイメージが強烈なんだとビックリしたことがあります。

 大学キャンパスのあり方を考えるとき、「多摩移転から何をしてきて何をしてこなかったのか」ということを丁寧に整理して評 価する必要があるのではないかと思います。私は「総括」という言葉があまり好きではない、というか適切ではないなあ、と。 「総括」というと何だか点として捉えられた時間にばかり目が行ってしまう。1978年の移転した時間に遡るのではなくて、78年からこれまで中大は何をして何をしてこなかったのかを線のなかで総括ができないといけない。

 環境も変わってきていますし、学生たちも変わってきているので、静止画的な総括ではなくて動画の総括をしなければいけないと思います。

学生との付き合いが一番救われる

――大学の仕事をしている時で、一番楽しいことはどんなことですか?

ヒルトップ隧道 中島 私に限らずよく先生方の多くがおっしゃるのは、会議や学内の問題処理ではストレスがたまるだけ。けれども、学生と付き合っていると一番救われるというか、楽しい。学生が学んで成長していく姿をみることは、なんか未来につながることをしている感じがしますね。

 2018年度までのゼミでは「セキュリティーの政治」というテーマを掲げていました。最終的に2万字ぐらいの論文を仕上げて いきます。論文のテーマは「セキュリティー」のどこかにフックがかかっていれば構わない。ですので、学生たちのテーマはいろ いろですね。日米の安全保障の話から、監視社会、最近では外国人労働者が増えて治安の問題とかいろいろです。ただ、論文を書かせるゼミはいくつかあるんですが、学生たちが「ガチゼミ」って言って敬遠するみたいなんですよね。とにかく楽しくみんなでワイワイできるゼミには学生が集まる。教員は皮肉ってエンタメ系ゼミって言っています(笑)。ガチなゼミは嫌われますね。私のゼミもゼミ員は少ないですね。

 論文を書ける時期って学生時代にしかないから、自分で課題を設定し調べたり文献を読み込み、まとまった文章としてアウトプットしていく作業は、きっとどこかで役に立つと言うんですけれど。政治学系のゼミはゼミ論の優秀なものを表彰するというのを続けていますが、そういう学生を表彰する、顕彰しようということは地道にやっていきたいと思います。ゼミの学生が書いた論文が出来がよくて、私だけでなく審査委員の人たちに評価されるのが、すごくうれしいです。

やっぱり、中大が好き

――ストレートに聞きますが、中島さんは中大は好きですか?

中島 好きですね。結局好きなんだと思います。早稲田や慶応のOBOGみたいに中大、中大ってならないところが性に合っている感じがします。研究で調査に行ってお目にかかったり、大学関係の仕事でいろんなところに行って話をして、最後、帰り際になってはじめて「実は私は中大って」言われることがあります。控えめというか、変なかたまり方をしないのが「中大らしさ」。そういうのって、実は嫌いじゃないなと。でも一方で、それじゃだめだとも思うこともありますけれど。

――いま、一番やりたいことは?

中島 とにかく研究をやりたい。2019年度は研究に専念できることになりました。法学部長時代は、ちょうど中期事業計画を立てているときで、会議ばかりでした。学部長やめて楽になりましたかと聞かれることがありますが、それはそれは楽になりました。金井法学部長時代に学部長補佐をしていたときに、学部長の仕事ってトラブル処理係だなあと思っていて、実際、そうだったのですが、そういうことがなくなったので、肉体的にも精神的にも楽になりましたし、研究の時間も少し取れるようになりました。研究者脳を作り直すリハビリ中です。

 学部の委員会から解放されて、今は全学のダイバーシティ推進の仕事にかかわっています。中大は圧倒的に男子学生が多い大学だった。私が入学したとき法学部のクラスに女子は3人しかいませんでした。そんな「ジャージ系の大学」も、女子学生が増えました。女子学生はもちろん、LGBT、障害者、留学生、いろんな考え方や価値観をもっている人たちが安心して学べるような環境づくりをしていきたい、そのためにキャンパス整備って、大きなチャンスなんですね。法人も教学も執行部は大日方理事を除いてみんな男性で、そればかりが理由じゃないんでしょうけれど、なかなか分かってもらえないところもある。でも、このチャンスを逃したくないなあって思っています。

(会報10号掲載「同期・同窓インタビュー」より)

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