門田 隆将(昭和58年法学部政治学科卒)

【略歴】かどた・りゅうしょう 高知県安芸市生まれ。本名・門脇  護(かどわき・まもる)。1983年3月、中央大学法学部政治学科卒。同年4月、新潮社に入社、週刊新潮編集部に配属。記者、デスク、副部長を経て、2008年4月に独立。週刊新潮時代は、特集班デスクとして18年間にわたって政治、経済、歴史、司法、事件、スポーツなど、さまざまな分野で800本近い特集記事を執筆した。
 独立後、“毅然と生きた日本人”をテーマに、ノンフィクション作家として次々と話題作を発表。主な著書に、「甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯」(講談社)、「なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日」(新潮社)「康子十九歳 戦渦の日記」(文芸春秋)、「この命、義に捧ぐ陸軍中将根本博の奇跡」(集英社、第19回山本七平賞)、「死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の500日」(PHP)などがある。
 朝日新聞の『吉田調書』スクープには当初から『誤報』と指摘、今回の朝日新聞の誤報謝罪のきっかけを作った。

 門田隆将の本

同期・同窓インタビュー

中央大学は時空を越えた不思議な力を持っている
 ~多くの取材で中大OBの協力を得る

 白門58会は、同期でノンフィクション作家の門田隆将氏(56)に、特別インタビューした。「惜別の歌」が中央大学の〝第二校歌〟になった経緯を著書『康子十九歳 戦渦の日記』で、克明に記した門田氏。「多くの取材で、中大の先輩たちにお世話になった」と語る。青春を過ごした大学時代の思い出から、「母校を愛するが故に」と、辛口のコメントも飛び出した。(聞き手は、本誌編集長の内山勢=58年経済学部経済学科卒)


 「入学式で、当時の戸田修三学長が『君たちには学問をする自由がある。しかし、それは学内だけでするものではない。君たちが学外で学ぼうとすることも中央大学は支援する』と挨拶された。今でも忘れません」

 門田氏が入学した昭和54(1979)年4月は、駿河台から多摩へキャンパスが移転して2年目。広大な敷地に広がる真新しい近代的な白亜の校舎は、当時、大学関係者や受験生の注目を集めた。「中央大学ってすごいなと思いました。司法試験、公認会計士試験、地方上級試験等々、資格試験で常にトップを争う大学の学長自らが、要するに『授業に張り付いていなくてもいい』とおっしゃったわけですから」

 街自体がキャンパスだった駿河台校舎と違い、緑に囲まれ、講義から食事、部活までキャンパス内だけで事が足りる多摩での学生生活は、「社会に学ぶ」という刺激に欠けることも事実だ。門田氏は戸田学長の言葉の通り、いや、それ以上に、ほとんど授業に出席せず、学外に飛び出した。

 マスコミサークル「グループH(GH)」、自ら創設した「評論誌研究会」の活動に没頭した。GHの拠点は、神保町の喫茶店「ラドリオ」。テレビ局や出版社のアルバイトにも精を出した。まだ、外国人に完全に開放されていなかった中国も巡り、帰国後知られざる中国の実態をえぐるルポも書いた。週刊誌記者、ノンフィクション作家としての基盤はそうした学生生活の中で育まれた。

 ノンフィクション作家になり、門田氏は中央大学の人材の層の厚さに驚嘆する。ベストセラーになった『甲子園への遺言』の主人公・高畠導宏さんは、中央大学野球部の出身だった。高畠さんは、イチロー、落合博満、小久保裕紀、田口壮などの一流プロ野球選手を育てあげた名打撃コーチ。「私が大学の後輩だというだけで、親しくしてくれて、息子の野球のコーチまでしていただきました」

 『康子十九歳』では、「惜別の歌」を作曲した藤江英輔さんが登場する。作詩は島崎藤村の「若菜集」の「高楼(たかどの)」の詩だ。東京・十条の陸軍造兵廠第三工場に学徒として勤労動員中、戦地に赴く学友を送る歌として曲が作られた。戦後も愛唱されている。「高畠さん、藤江さんをはじめ、多くの大学の先輩たちの協力によって、感動のノンフィクションを書くことができたんです」と門田氏。

 「人間には命があって、限られているわけだけれど、その生命とは違う、時空を超えた不思議な力を母校は持っていて、いつも感動させられるし、勇気づけられます。それがわたしにとっての中央大学。だから私も母校の力になりたいと思うわけです」

 「それだけに」と、門田氏は語気を強めた。「最近の中央大学のあり方は非常に残念だ」という。そのひとつが中大付属中学校の不正入学問題に絡む一連のゴタゴタ。そして、もうひとつが中野区の警察大学校の広大な跡地を、積極的な対応を行わず、結果的に都心の新キャンパス取得ができなかったことだ。

 全国に講演に行くと、「わたしも中央大学出身です」と、地方の名士になった多くの先輩たちが声を掛けてくれる。そういう先輩たちが、「最近の中央大学はどうなっているのか」と門田氏にしょっちゅう聞いてくるという。「わたしなりの解説で厳しい現状をお話します。わたしは、中央大学の本当にすごい大先輩たちの毅然として生き様を書いてきました。それだけに、いまの足を引っ張り合うような母校の姿を側聞するにつけ、非常に腹立たしいし、情けないと思うんですよ」

 いまの現役中大生に対しても、「非常に地味。積極性にも欠ける。何か線が細くなった気がします」と手厳しい。

 では、どうしたらいいですか?と尋ねると、「戸田学長ではありませんが、『学内で学ぶだけでなく、外に飛び出そう』ですね。当時マスコミを目指した人間として、いまこそ中大生はジャーナリズムの門を叩けと言いたい。そして、真実の声に耳を傾ける“人間の本質を描く”ジャーナリストが育ってほしい」

 門田氏とはGHで一緒だった。学生時代からの毒舌は健在、いやますます磨きがかかっていた。わたしも現在マスコミで仕事をしている身。門田氏が言うように、ジャーナリストの一員として、そしてOBとして、愛する母校のためにものを申していくべきだと感じた。

(会報6号掲載「同期・同窓インタビュー」より)



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